舞踏言語、といか言いようがないもの

休憩時間にオーチャードホール併設の飲食コーナーを覗いてみると、
シェフが生ハムを切っていた。一皿500円。
いいなぁ……ヲイラは持参の缶コーヒー飲みます。
クローク横の物販コーナーは、パンフレット、記念Tシャツ。どちらも2000円だったと思う。
特筆すべきはオットーの「トッカータ」の音楽CDを売ってたこと。1500円だったかな?
さいたま彩の国劇場の時も「辿り着かない場所」のCD売ってたっけな。
オットー、しっかりしてるぜ!


さて
*ル・スフル・ドゥ・レスプリ〜魂のため息〜
 この演目のどこが良いのかと尋ねられると、言葉につまる。
 はっきりした見せ場があるわけではないし、そもそも起承転結すらあやしい。
 ただ「なんかいい」としか形容しようがない。なにかが心に残るのだ、としか。


自分なりに理解したことを元に解説するなら、
始まりは3人の男性(イリによれば天使たち)に導かれる女性のシーンからだ。
そして場面はいつの間にか変化し、
ダヴィンチの複数の画(洗礼者ヨハネ〜微笑みながら天を指すアレ、など)を背景に、
複数のダンサーが入れ替わり立ち替わり、ジャンプやピルエット、さまざまな動作をこなす。
ダンサーは、男は生成り色のパジャマのような上下に、
女性は同じタイプの上のみ、トウシューズなし。
基本はペアのその動作は、全身で喜びを表しているように見える。
初めて見た時は、こんなに楽しそうなコンテンポラリーがあるのかと驚きだった。
苦しみとか悲しみとか、「はいはいわかったごちそうさま」的な、
見てるこっちがげんなりするようなものが多いコンテというジャンルで、
(あるいはバランシンに代表されるアメリカ系のように、完全に感情を取り除いてしまうか)
ル・スフル・ドゥ・レスプリはもうそれだけで希少価値と言える。

……個人的にはこのペア中心のシーンは、イリとオットーの子供時代を表しているように感じられ。
ダヴィンチの微笑みに見守られる中、同じ動作で踊る男女は
「我」と「彼」が未分化な、同じ魂がふたつ楽しげにじゃれあっているようだ。
死の恐ろしさも別れの悲しみもまだ知らない、
ネガティブな感情に一度も染まったことのない魂たち。


だが、それはいつまでも続かない。


いつの間にか男女ペアの乱舞は終わり、舞台は3人の男性に戻っている。
背景は、聖母子と聖ヨハネとその母のスケッチ、同じ画像を二枚並べている。
ヨハネとイエスという子供ふたりに、それを見守る二人の母親。
イリとオットーの家庭の事情は詳しくは知らないが、
もしかしたら二人の祖母は、こんな風に双子を見守りながら育ててくれたのかもしれない。
二枚の画の前で踊る、3人の男性たち。
手足を、体を、所作通りに動かしているように見えるが、時々その動作が不規則にもつれる。
強烈な感情で体が痙攣しているかのように、手や体が不自然にねじれるのだ。


……客席に背を向けることが多めな、つまり背景に顔を向ける時間が多いこのパートは
イリとオットーの、亡きふたりの祖母への感情のほとばしりだろう。
悲しみ・寂しさ・懐かしさ・慕わしさ・幸福の記憶・感謝・これから先への誓い。
言語ではこうやって名付けて分類して、順列で並べてゆくしかない複数の感情を
イリの舞踏は、手や体の動きひとつに集約して並列で乗せてしまう。
まさに、舞踏でしか為し得ない表現と言ってよい。
その表現が卓越していると誰もが判るゆえに、
ル・スフル・ドゥ・レスプリと、それを振り付け、自ら踊るイリは
世界中の至る所から招待されているのだろう。


そして最後は、冒頭のパートが繰り返され、舞台は終わる。


こやって書き記すとなんか整然としてるけど、
それは自分がイリの舞踏を自分で解釈・翻訳してるからで、
当然、その過程で見落とされたり判らなかった微妙なニュアンスもあるわけだ。
こっちが勝手に思い込んでいる箇所も多々あろう。
要するに、なんかいいのだ。なんか知らんが泣けてくるのだ
悲しい訳でもないのに。
バッヘルベルのカノンに格別思い入れがあるわけでもないのに。


ああ、次の来日はいつ……