舞台美術と、音楽と

さて、休憩挟んで第二幕
*牧神の午後
 ドビュッシーの音楽に、ニジンスキーをリスペクトした全く新しい作品。
 まさに、リスペクトとしか形容しようがない。
 僧院らしき場所を舞台に、神父と少年が性的関係を持つという、なかなかスキャンダラスな内容。
 冒頭はボーイソプラノのチャントが流れているが、二人の視線が合い、少年がハッと体を固くしたところで
 「牧神の午後のための前奏曲」のフルートの音色がスピーカーから流れ出すのだ。
 ううむ、こうやって聞くとなかなか官能的な音色だったのだな、と感心しているうちに
 舞台はどんどんエラいことになってゆく。
 少年と神父は、芽生えた思いをどうすることもできずに悶々とするのだが
 この二人に「牧神」が文字通りからむ。
 股をくぐり頬をすり寄せ手を誘い、それぞれのエモーションを煽り立ててゆくのだ。
 牧神には独特の、萎えた下半身を引きずって上半身だけで動くようなモーションがあるのだが
 終盤になると神父がこの動きをするのが興味深い。すっかり牧神に乗っ取られているわけだ。
 結局、神父と少年は事に及ぶというか、踏み切れない少年を神父が強引に……的なノリで終わる。
 そして、険しい顔になる神父と放心しきった少年を睥睨するように、
 冒頭は神父が座っていた支配者的な地位の椅子に、牧神が腰を下ろして、舞台は暗転してしまう。


このバレエのどのあたりがリスペクトかというと、
牧神がところどころで、ニジンスキーの振り付けと同じポーズをするのだ
横を向いて両手を差し出したり、寝転がってあくびをしてみたり。
これが実に良いアクセントというか、内容的に色々ぽーっとしそうな観客に、
ハッと我に返る余裕を与えてくれる。
今見ている作品のタイトルとその意味を思い起こさせてくれるのだ。
正直、ニジンスキーの牧神は、あまりピンと来なかったのだが
唯一無二の、誰とも似ていない、一目でわかる作品とは貴重なのだなと思った。
もう一つリスペクトなのは、内容そのものだ。
本家ニジンスキーも、上演された時は大変なスキャンダルを巻き起こしたというが、
ブベニチェク版「牧神の午後」も、本家に劣らず強烈だ。
家族連れはさぞや気まずかったろう。わははー


この演目で注目すべきもう一つの点は、オットー担当の舞台美術。
長椅子2つと長テーブル、そして神父が座る椅子だけのシンプルな舞台装置には
背景一面に、黒字に白で十字がかかっている。いわずと知れた、十字架のモチーフだ。
この十時が、舞台が進むにつれどんどん太くなり、やがて赤く変わってゆくのだ。
それはまるで、聖なるシンボルだと思っていたものが
何か他のものに変貌してゆく過程を表している様にも思える。
その変貌はそのまま、この演目の語りたいことでもあるわけで、
こんなにシンプルなのに饒舌な舞台装置は、めったにお目にかかれるものではない。
いったいどうなっているのだと目を凝らすと、仕組みは至って簡単だった。
大きな白地の幕の前に4枚の小さな黒い幕を吊し、
それを集合・離散させることで十字架のサイズを調整できるというわけだ。
背景の白地に当てる照明の色が変われば、十字架も白から赤に変わるというワケ。
いやー、オットー頭いい! それともドイツでは普及した手法なのかな?
単に自分がコンテンポラリーや小規模演劇をあまり見ないだけ?
そういやフラジル・ヴェッセルでも
背景の暗幕を少しだけ上げることで夜明けを表していたが、
あれもオットーの発案なんだろうか。
オットーは「トッカータ」の作曲も担当しており、
これは以前の「たどり着けない場所」とはガラリと雰囲気の変わったメロディアスなピアノ。
きちんと音楽になっており、多彩な男なのだなぁと感心した。
(ただ、どちらの曲もメロディライン一本だけで、
ギターにドラム、コーラス乗せてといったフルスコアな曲はダメなのかなとも思ったり)


で、もう一本の
*プレリュードとフーガだが
こちらはいたってシンプル。イリ版「白の組曲」といったところ。
オペラ座エトワールの二人が交互にソロパートを踊り、最後はサラリとパドドゥにあって終わり。
美しい男女をほけーと見てるのが正解、な内容でした。
まぁ、「牧神の午後」があまりに濃すぎるのでちょうどよろしい。


ここまでで第二幕、
そしてどんじりに控ぇしは、世界中でひっぱりだこの「ル・スフル・ドゥ・レスプリ」