「アンナ・カレーニナ」(新国立劇場バレエ団)

予習が何だったのかというと、まぁコレのためだったワケで。
ブログの日付は27日となっておりますが、
見たのは26日夜の部。
振付のボリス・エイフマンは自分でバレエ団を率いているとのことなので
そこの生え抜きが踊る回を見ることにしました。
……大当たりでございました。



原作の枝葉をばっさり切り落とした結果、
物語はアンナとヴロンスキー、そしてカレーニンの3人がメインに。
(キティが空気、リョーヴィンは存在すらしねぇ)
ヴロンスキーと出会ってしまったアンナが揺り返しながらも
結局は破滅に向かってしまうという、原作の流れに沿っております。


……いやぁ、自分は
「原作のアンナ愛せないなー。この清教徒的感覚はマズいだろうか」と
少しばかり考えていたのですが、
嫌いでいいんですね、エイフマンさん!
「女性の情念は時として人生まで変えてしまいます。
その負のエネルギーが周囲を破壊し、自分をも滅ぼしてしまう。
自分の周囲にある橋をすべて壊してしまう、一種の病気です。
それをバレエとして描きたかった」
(パンフレットより)
納得できる話だし、コレは確かに原作のアンナの振る舞いを端的に表した内容だ。
そっかー、DQN親はいつでもどこにでも、みんなの胸の中に生きているんだね。
そーだよねー、母性って本能じゃないもんね! ……って肯定できると思ったら大間違いだよ!



まぁ、それはともかく、
ヴロンスキーと出会い、恋に落ちたアンナは、
一度はカレーニンと和解するも情念は止まず、
外国に行ったり、帰ってきて上流社会から拒絶されたり
(この拒絶シーンの振付が見事でした! 鉄壁のプレス!)
アヘンを煽った結果、理性(衣装)を脱ぎ捨てケダモノ状態になってしまい、
(コレがまた怖い!アルビノーニアダージョ未見だったら泣いたわ)
最後には蒸気機関車に向けて投身××するという流れを、
メイン三人は見事に演じてくれました。
うむ、踊るというより演じるという言葉がふさわしい内容でした。
小道具がまた効果的でして
円いレールの上をグルグルと走るおもちゃの機関車に雪が降るところから幕が空き、
第1部幕切れ・カリーニン一家の一時的和解の横で、そのおもちゃの機関車&雪がまた登場し
そしてラストは蒸気機関車&雪で終わるわけで、
どこにもたどり着かずに空回りする情熱のモチーフなのですな>機関車
(んでもって雪の停車場は、原作でヴロンスキーが初めてアンナに告白した場所なのだった)


舞台装置は大変にシンプルで、
照明を当てて色を変える白い幕の手前にドーム形のガラス窓、
そして陸橋がかかっており
これが駅にもなり、舞踏会の会場にもなる仕組み。幕を引けば家庭に変身。
まぁ、人々がゆきかう駅も、部登場も、グランドホテルには違いなし。
振付は、全体的にテンポの早かったように思う。
上流社会が舞台の割に落ち着きがないとも思いますが、
非人間的社会のシステムってことなんだろうな。
あ、モスクワとペテルスブルグの違いがあんま感じられなかったのが残念ちゃ残念。
群舞の皆様がそのテンポに流されることなく、
きめるべきところをキメていたのも見事でした。
メイン三人では、一番気に入ったのはカリーニンかなぁ。
ダークで細身な悪役、な雰囲気でした。
ヴロンスキーが一応王子様ポジションだからかな。
アンナの踊り手は、徐々に壊れてゆく人妻を見事に見せてくれました。
夜更けにカリーニンをベッドに残して抜け出してヴロンスキーと逢い引きし、
そして戻ってくる途中に足を止め、ふと笑みを浮かべるところが鬼気迫ってました。
ニタリ、なんだもんなぁ。ニコ、じゃなくて。「うへぇ」と思ったわ。
クライマックスの阿片ワールドは、ちゃんと最初から
アンナの胸の中にあったのだなぁと思わせる笑みでした。


それともう一つ興味深かったのは、阿片に狂うアンナの内面シーンを待つまでもなく、
第一幕の、苦しむカリーニンの踊りに
「あ、この振付家は『アルビノーニアダージョ』の人だ」と思わせる
独特の雰囲気があったということ。
何なんだろうな。舞踏言語というヤツなのだろうか?
ここまで強烈に振付家の個性を感じたことは初めてです。
カリーニンといや、アンナを説得しようとしては拒絶される
二人のパドドゥも素晴らしい内容だった。
互い違いに前に数歩進むだけ、それが歩み寄り&拒絶を見事に表している!
あそこだけ抜き出して再構成して、ガラ公演とかでやらないんだろうか?


書いているとキリがないけど、
ロシアの原作に、ロシアの音楽(チャイコフスキー)、そしてロシアの振付家
……ロシア芸術、おそるべし……としか言いようがない内容でした。
(もちろん群舞は日本だし、カリーニンとアンナはウクライナ出身だけど)
DVDはないのか……もう一度見返したい……ああ、スケジュールに空きがあれば……