どっちを向いても自分しかいないって、どうよ?

地道に崩そう積読の山、やめよう衝動買い。
などと言いつつ三島由紀夫の「鹿鳴館」と「鏡子の家」を新刊で購入。
鹿鳴館劇団四季の近年上演の方をTV中継で見たきり。
簡略化された舞台装置に、いかにも舞台のお芝居といった声色に
「まぁ、わかりやすくて声が通るってのは悪いことじゃないよねぇ」と
何とも生ぬるい気持ちになった。
今年の正月特番で、TVドラマも制作されたようだけど
影山伯爵のキャストを聞いて烈しく意欲を削がれた上
冒頭で早くも火サスっぽいつまらないセリフが追加されていたのでパス。
後でもう一度ザッピングしたら、影山が清原ん家に押しかけて怒鳴ってた。
すげぇ「鹿鳴館」もあったもんだ。
三島夫人は亡くなったから、著作権を管理しているのは子供世代かな?
父親の作品に関してどんな感慨を抱いているのやら。



まぁ、そんなコトを考えつつ、脚本集を手に取ったついでに
結婚を決意した時期に執筆・脱稿した「鏡子の家」も未読だったので
この機会にと捕獲したのだが……
うわー、三島を読んで初めてハズしたと思ったかもしれない>この二冊
鹿鳴館」の方は、他に3編の脚本が収められているが、
どれも何だかなー、オチはどこですか?な内容
「夜の向日葵」がギリギリ許容範囲くらいかな。
近代能楽集の「弱法師」がアリなら、これも許容するか、なノリ。
舞台作家としての三島は「黒蜥蜴」を書くまでは
「『鹿鳴館』以外当たるもんがない」と言われたそうだが、
これに収められた作品読む限りでは「そらそーだ」と思ってしまった。
何が悪いんだろうなぁ。
悲劇で終わるのが悪いんじゃないけど、
カタルシスのない悲劇なんだよなぁ。何となく。



そんなモヤモヤした気分のまま「鏡子の家」へ。
……さらにモヤモヤ感倍増。
出てくる四人の男誰もが、当時の、あるいはその後の三島にオーバーラップするキモさ。
さらに文中で鍛えた胸の筋肉を「楯のよう」と記述してあって
もうキモさ臨界点突破。まさか「木盾の会」ってそういう意味じゃないだろな?
こういう現象に出くわした時、つくづくフシギに思うのだが
書いている本人は、こうした作品をそして書いている自分を嫌悪しないのか?
フィクションの中ですら自分と顔付き合わせて楽しいのか?



この疑問は、向田邦子の脚本を読む時にも常につきまとう。
あの「技能職に就いているお堅い女性」が「年下で女性より社会的地位の低い男」と
「結婚を考えてもいないのに妊娠」して結局幸せになる率は異常だ。
この3つの要素が一つも入ってない向田脚本は、
源氏物語」と、タイトル忘れたけど森繁主演のヤツくらいじゃなかろうか。
まぁ向田邦子の場合、独身のままだったこと、子供もいなかったことを考えると、
こちらの場合は「こうであってほしかった」願望を繰り返し書いていたのかもしれないが。
(その究極形が「蛇蠍のごとく」なんじゃないかと密かに思う自分)
それにしても、書く度に過去の自分の愚かさ加減と向き合う訳で。ねぇ?



何かを書く時に、作者の視点が紛れ込むのはしょうがないことだし
時としてそれこそが魅力になるのだろうけど
ほどほどにしないとなぁ、と思った作品だった>鏡子の家