MW文庫はやっぱりラノベでしょ

渋谷のアニメイト下に書店が新規オープン。
ガラス扉に「24時間営業」とうたっている。
都内に住んでた頃なら重宝したろうなと思いながら
中をぐるりと巡回したのだが
MW文庫はやはり一階の一般文庫ではなく
2階のライトノベルコーナーに陳列されていた。


店へのご祝儀に何か買って帰ろうかな、そいや
MW創刊時のラインナップに西尾維新っぽい作風のがあるって聞いたけど
何て名前だっけ、などと思っていると、コレが目についた

観―KAN (メディアワークス文庫)

観―KAN (メディアワークス文庫)

能楽の大成者・観阿弥の若き日の姿を鮮烈に描く!』
ほへ、能、ね。
確か創刊時のラインナップで一番部数刷ったのは小劇団ものだっけ。
どういう方面を目指してんの、この文庫。
などと思いながら手に取ってパラ見すると、
文体がしっかりしている雰囲気があったので、購入。
で、読んだわけだが。
……いっやぁ、ビンゴ。
この作品出しただけでも、MW文庫を創刊した意味あったんじゃね?
それくらい自分的にはベタ褒めしたくなる内容でした。


内容は、若き日の観阿弥(10代後半?)が
ジゴロというよりニートな日々を送る夏から色々あって
春日神社の若宮祭り・11月に
自分の一座、すなわち自分主体の興業を成功させて終わる。
そのへんはどーでもよろし。
いや、時代劇小説としては及第点以上だろうし、
室町時代の「長生きなんかできない、明日死ぬかも」という雰囲気が
「だから今日やれ、今すぐ走り出せ」的な前向きなものとして描かれていて素晴らしい。
欠点があるとしたら、エロ描写がめっさオヤジくさいトコくらいか。
まぁ室町時代にメイド服の絶対領域とか存在されても困るけど。
(あと幼女はあのまま行方不明になるべき。親切な人買いとかキモス)
でも、自分が心惹かれたのはそこではない。
作品中に書かれている『舞』の姿だ。


作品中に「舞」の描写はおおまかに見て4カ所ある。
主人公が憧れを抱く『増』の獅子舞(時間的には長め)
主人公となじみの白拍子・あやめの舞(わりと短め)
主人公が預かっているあやめの娘・藤寿の舞(時間的には長いが描写は短め)
そして主人公自身の舞(クライマックス・かなり長い・複合的)
あやめと藤寿の舞は、舞そのものより、前後の言動や舞から連想するものが重要なポイントで
いわば、舞は何かの呼び水といった扱いになっている。
それに対して、かなり重要視されているのが増の獅子舞。

ひゅっと宙に飛び、一回転し、着地した瞬間、今度は後ろに飛ぶ。
両手両足を広げ、広げたままで地に伏せ、その姿のままで飛び起き、鞠のように跳ねる。
驚くのは、その激しい運動の間じゅう、男の足音は常に軽やかで、微塵も
重く響かないことだった。(中略)
これほどの丈夫がこれほど軽やかに舞い、何の重さも感じさせぬのは尋常ではない。
――増には唐人の血が入っているらしい。そんな噂があった

少なくとも現代の能や狂言は重たい衣装を着て行うものがほとんどで、
こんなに軽々と飛んだり跳ねたりするものは稀だろう。
この描写に自分が感じたのは「コンテンポラリーみたいだな」だった。
その印象をさらに強めたのが次の描写。

舞台の男は、やがて両手両足をついて四つ足になり、そのままの姿で宙に飛んだ。
袴の紐と、縄で束ねた髪が、たてがみのようにあとを引く。(中略)
男は宙で体を揉み、小さく吼えた。瞬間、舞台から人間の男は姿を消し、
一頭の獣が舞うのみになる。
(増の獅子舞!)
諸芸を見慣れたおれでさえ、一瞬、心がざわめいた。(中略)
獅子は縦横にとび、大地を踏みしめ、周囲を威嚇し、己が力に酔う。かと思えば
猫のように無垢な表情で寝てしまう。眠りから醒め、再び獣王に返り、獰猛さを
剥き出しに周囲を一瞥する。みなぎるその力。見るものの咽喉笛さえいまに
飛びかかって食いちぎりそうだ。
――怖や。
公家はもちろん、武家の中にもこの舞を見て後ずさったものがいるという。
それでいて、誰もが一度見れば二度三度とこの男の舞を見たがった。
破壊的なるがゆえの魅力。
――増の獅子舞こそ、地獄を見るものならめ。

ガタイの良い兄さんがバイタルにとんぼ切ってんのに、
観客からは『怖い』『地獄だ』という感想しか出てこない。
これは、舞踏の本質の一つがよく現れている現象だと思う。
以下、ちょっと論理が飛躍するかと思われますが
この小説からインスパイアされた備忘録ってことで。突っ込むなー


世界に数多ある舞踏・ダンスは、起源をたどってゆけば必ず
何らかの宗教儀式と関係しているはずだ。
(絵画・音楽などの芸能というジャンル自体が、元々宗教から派生したものだし)
そして宗教の中の舞踏は、リズムに合わせた仕草の反復により
自らを(場合によっては観客をも)トランス状態に持ってゆくのが目的だろう。
フラメンコのドゥエンテとか、スーフィーの旋回舞踏とか。
つまり舞踏とは、肉体という結界の中に神や精霊を召還する、
すなわち、皮膚一枚の下を幽界に転じてしまう儀式であったと言い換えてもいい。


だからこそ、その舞踏が本来の意味から離れ
娯楽・芸術となってしまった今でも、
舞踏はどこか、幻想的な題材が多いのだろう。
日本の能も、幽霊や妖怪を題材にしたものが多いし、
バレエだってジゼルやら薔薇の精やらお化けネタでいっぱいだ。
そもそもトゥシューズで立つ「ポワント」という仕草が
地に足がついていない=幽霊っぽいワケだし。


……脱線が過ぎたので『観〜KAN〜』に戻すが
『増』と主人公、それぞれが踊りの中で観客に地獄を見せるのは
何も彼ら共通のトラウマ的体験からではなく、
彼らがその才能ゆえに踊りの本質にたどり着けたからなのだろう。
それがたまたま極楽ではなく、地獄だっただけのことだ。
佳きかな、道を極めし者。


まぁ、あれこれ理屈を並べるより
百聞は一見のなんとやらというワケで(敗北主義者っ)動画を。
ファルフ・ルジマトフ氏の「アルビノーニアダージョ
振付:ボリス・エイフマン。
(本当は岩田守弘振付の『阿修羅』を紹介したかったのだが。
ネット上に公開されてないのはともかく、もしやDVDにもなってない?
記録映像として残しておいてほしいんだけどな)

集団の中から個を獲得しようとして挫折する姿、がテーマの作品ですが
4分過ぎあたりからチラホラと地獄の片鱗が覗いております。