詮ないこと・一年後

奈良へ行ってまいりました。
10月28日、午前6時。
首藤剛志さんが倒れた場所の様子を確かめるためだ。
一体どうしてそんな場所にいたのか、そこで何を感じていたのか、知りたいと思ったからだ。
ストーカーまがいの行為だが、もう故人となられたのだ。誰にも迷惑はかけますまい?


奈良に宿を取り、一泊の予定を組んだ。
事前の調査で、京都に泊まった場合はどんなルートを取っても奈良に午前6時には行けないこと、
夜行バスの場合も午前6時に奈良に着く便はないことが判っていたので、これで正解だろう。
まぁ、京都に泊まってタクシーを飛ばしてきたという可能性も残っているが、
奈良の薬師寺が目的だったという情報があるので、奈良に泊まったと考えていいと思う。
 ……朝4時過ぎ。予定よりずっと早く目覚めてしまう。熟睡はできなかったようだ。
馴染みのないベッドの感覚はお金取るだけあって快適ではあるが、安心や寛ぎまでは面倒を見てくれない。
ヤケを起こしつつカーテンを開けると、JR奈良駅に煌々と明かりがついたままになっている。
もしかして一晩中、明かりを消さないんだろうか。電気代、もったいなくないか?
シャワーでも浴びるかなとバスルームに入ると、ピカピカに磨かれた鏡に自分の顔がくまなく映し出される。
シワやシミが増えてきたなぁ、と年齢を自覚しながら、何となく寂寞感に襲われる。
遠くまで来たのだな、と意味もなく思う。時間的にも、空間的にも。
アメニティのハンドソープも、普段使い慣れたものとは違う香りがして、異邦感をかきたてる。
旅とはこんな侘しいものだったろうか? 猫を飼うようになってから、泊りがけで出るのは初めてだ。
結局、身支度を整えるだけにして、時計が5時を回るのを待つことに。
 チェックアウトではないのでこっそり出るつもりだったのだが、
早朝なのでホテルの出入口が一部使えなくなっており、結局フロントの方を煩わせてしまった。
ふと、首藤さんは朝ホテルを出る時に、フロントの人と言葉は交わしたのだろうかと思う。
頭が痛いから頭痛薬はないかと一言訊いていれば、何か変わったかもしれないのに、などと。
 ……5時40分過ぎ、JR奈良駅に到着。
現在の喫煙所は、奈良市の総合観光案内所(旧奈良駅の駅舎)の横だが
一年前は、奈良駅東口の階段の下にあったとのこと。
現在、その場所は放置自転車が数台並んでいるだけで、当時の様子を知る手がかりはない。


その場所に立って、あたりを眺めてみる。
目の前の真新しいホテルが視界を遮っているが、左手の方には駅前の街並みが見える。
奈良の駅前には大きな建物はほとんどなく、街並みの屋根の向こうに春日山のシルエットがあった。
街灯が地面を照らしているが、頭上に広がるのは夜空というわけではない。
深い藍色の裾……山の端に届くあたりが白み始め、日が昇る気配を感じ取ることができる。
 駅前のロータリーにはタクシーが一台だけで、ロータリーの向こうを車が通り過ぎてゆく。
活動前の街といった趣きだが、意外なことに人の行き来はないワケではない。
すでにJRは動いているらしく、ポツポツと人が駅に吸い込まれてゆくし、
また、駅からパラパラと人が吐き出されてくる。
 駅から出てきた人々は、皆揃えたようにジーンズにキャップ、デイバッグといういでたちの男性ばかりで
東口の階段=元喫煙所の横を通って、線路沿いに駅の北の方に歩いてゆく。
そちらに路線バスのターミナルがあるので、その関係かもしれない。
いかにもブルーカラーな人々の背中を見送りながら、彼らは一年前にはここで一服していったろうか、などと思う。
あの人たちの中に、首藤さんの姿を見た人はいはしないだろうか。
 視線を再び街並みに転じると、カラスが数羽、集まってきていた。
建物の屋根や、電線に止まり、お互いに威嚇しあっている。
関東と同じハシブトカラスだろうか。
そういえば、朝の道玄坂にもカラスが跋扈してたっけ。数はこちらの比ではないけど。
首藤さんはこの光景を見て、自分と同じように道玄坂を思い出したろうか。
それともすでにクモ膜下出血の頭痛に悩まされてそれどころではなかったろうか。


5:55を回った頃、JRの制服を来た人が一人、バスターミナルの方からやってきて
そのまま階段を上がっていった。
もしかしたら、救急車を呼んだのは一年前の同時刻に出勤したJRの人だったのかも、などと思う。
記録では午前6時になっているけど、ジャスト6時というわけではないだろうし。
……ふと空を見上げると、空が完全に明るくなってきていた。
ちょうど日の出の時刻らしい。
若草山が黒いシルエットから、濃い緑色の山並みへと姿を変えてゆく。
空の藍から黒味が消え、深い青だけになってゆく。白かった空の裾がオレンジに滲み始める。
夜が明けるのはもうすぐだと、はっきりとわかる。
 脳裏を「Cat's」の「メモリー」のラストフレーズがよぎった。
Look,the new day has begun
(この歌を歌うグリザベラはジェリクルキャット=転生を約束された猫となって昇天する)
(と、ロンドン版のCDを聞いた私は解釈している。違っていたら大変に申し訳ない)
太陽はまだ見えないけど、夜が明けるのを確実に伝える空。
空っぽだったロータリーはいつの間にかタクシーが数台並び、荷卸しの小型トラックが横付けしている。
駅に向かって歩いてくる人々の数も、確実に増えている。
この景色を見ながら意識が遠ざかるというのは、幸せだろうか。
死に方としてはどうなのだろう。


……悪くないのかもしれない、という気がしてきた。


ベッドの上で、畳の上で、人々に囲まれて見送られるのが一般的な理想なのだろう。
しかし、親しい人が自分を呼んで泣いているのを置いてゆくのは心残りだし
大して親しくもない人に囲まれているとしたら、さらに気づまりだ。
そういう意味では、異邦の地でたった一人の時に倒れるというのも、一つの理想だろう。
人が大勢いる中で倒れるのは見世物になるようで嫌なものだし、
誰も通らない場所で何時間も発見されないのも、それはそれで悲しい。
人がぽつぽつと行き交いはじめた、きれいに清掃された観光地の駅前という場所は、
突然倒れる場所として、理想的とは言えないまでも、少なくとも最悪の類ではないと思える。
(理想的な倒れる場所ってどこだよ、と言われると答えに困るが)


そんなことを考えながら、しばらくその場でぼんやりした。


実際、ここに来るまでは、もっと寂しい風景を連想していた。
人気のいない喫煙所で、まだ真っ暗な空の下で、
首藤さんは寒さに凍えながら倒れたのだろうと想像していた。
当日の気温はわからないけど、
少なくとも人通りがあること、
そしてもう夜が明けていたことがわかっただけでも、良かった。


同好の士とかちあったらどうしようかとも思っていたのだが、
元喫煙所にも、現喫煙所の方にもそれらしい人は来なかった。
だとしたら、首藤さんが最後に見た景色を知っているのは
ファンの中では(現時点では)私だけということになる。
これはささやかな誇りとして、胸にしまっておこう。
生きている間には何も共有できなかったけど、
最期の景色を共有できたことを、慰めにしよう。